2016年のキーノート&トークセッション
日産とプリンス50年の融合の歴史

2017.07.11 | Special

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日産とプリンスの合併が正式発表されたのは、1966年8月。つまり2016年はちょうど合併50周年にあたる。それにちなんでトークセッションのテーマは「日産とプリンス50年の融合の歴史」。ゲストスピーカーはスカイラインの開発者として高名な日産OBの伊藤修令氏と渡邉衡三氏、進行役は日産自動車グローバルマーケティングの中山竜二氏である。

伊藤修令氏は1959年にプリンスの前身となる富士精密工業に入社。名設計家として知られる桜井眞一郎氏の一番弟子として、初代からスカイラインの開発に携わり、16年ぶりにGT-Rを復活させた8代目R32では開発責任者を務めた。渡邉衡三氏は1967年に日産に入社、伊藤氏の後を受けて、R33とR34スカイラインの開発責任者となった。

プリンスの成り立ちを遡ると、戦前から戦中にかけて主に軍用機を生産していた、立川飛行機と中島飛行機という2つの航空機メーカーに辿りつく。資本や組織の変更に伴って社名は何度か変わっているのだが、プリンスという名が初めて登場(当初は社名ではなく車名/ブランド名だった)したのは1952年。後に御料車のニッサン・プリンス・ロイヤルを作るなどプリンスは皇室と縁が深いメーカーだったが、プリンスという名もその年に行われた皇太子(今上天皇)の立太子礼を記念して付けられたものだった。

戦後、国内自動車メーカーは乗用車生産を開始するにあたって、戦中の技術的空白を埋めるため、数社は海外メーカーと技術提携を結んだ。
「そんななか、トヨタとプリンスはあくまで自社開発にこだわっていた。なかでもプリンスは技術志向で、進取の精神に富んでいた。その思想に共鳴して入社したんです」
そう語る伊藤氏が入社した当時のプリンスのラインナップは、初代スカイラインと、その派生車種であるグロリア。初代スカイラインは後のようなスポーティセダンではなく、クラウンに対抗する5ナンバーフルサイズのセダンだった。

1963年にスカイラインはフルモデルチェンジを実施、2代目はダウンサイズして、トヨタのコロナや日産のブルーバードと市場を争うファミリーセダンに生まれ変わった。その2代目S50系スカイラインは、3万kmまで無給油のノングリースアップシャシーと、4万kmまで保証の封印エンジンという、画期的なメンテナンスフリーを打ち出して話題を呼んだ。当時のクルマはメーカーや車種を問わず、3000〜5000km走行ごとに、シャシー各部へのグリースアップが不可欠だったのである。伊藤氏は語る。
「当時の日本の道路は舗装率低かったから、下まわりから泥やほこり、水がどんどん浸入してくるわけです。それを防ぐためにサスペンションのジョイント部分にダストカバーを付けるんですが、タイヤの跳ねた石でカバーが切れちゃう。カバーの形状や材料を変えたり、漏れ出さないロングライフグリースを開発したり、苦労しましたね」

その2代目スカイライン(S50)をベースに、1964年の第2回日本グランプリに向けたホモロゲーションモデルであるスカイラインGT(S54)が生まれた。通称“スカG”の元祖となるモデルだが、その開発エピソードが伊藤氏の口から語られた。
「第1回日本グランプリで、認識不足から惨敗を喫したプリンスは、汚名返上を誓っていました。それで開発に励んだ結果、1.5ℓクラスはスカイラインで、2ℓクラスはグロリアで勝てそうな手応えを感じたんです。そうこうするうちに、GTクラスも含め三冠を目指そうということになった。だが既存のラインナップには、GTクラスに参加する持ち駒がない。それでスカイラインGTの開発が始まったんです」

最初はスカイラインのボディにグロリア・デラックス用の1.9ℓ直4OHVエンジンを積んでみた。そこそこ速かったが、このレベルでは外国車に勝てないのではという疑問が頭をもたげた。仮想敵は、1.6ℓ直4DOHCエンジンを搭載したコルチナ・ロータスだったという。
「それでノーズを20cm延ばして、グロリア・スーパー6用の2ℓ直6SOHCエンジンを積もうという話になったんです。常識では考えられませんが、そこは『やっちゃえ、プリンス』でしたよ(笑)」

2代目スカイラインのモデルサイクル中の1966年に、プリンスは日産と合併。合併による効果を出さなければと、当時開発中だった3代目スカイラインに、やはり開発中だった日産の3代目ブルーバードとの部品共通化の命が下った。3代目スカイラインは68年にデビューし、後にハコスカの愛称で呼ばれる型式名C10、3代目ブルーバードは67年に登場する、名車の誉れ高い510である。
「C10のシャシーを設計していた私に、桜井さんが510のサスペンションの図面を見せて、これを流用するようにと言ったんですよ。自分では記憶にないんですが、桜井さんによれば、そのとき私はすごくイヤな表情をしたそうなんです」

尊敬する上司である桜井氏の命令とはいえ、伊藤氏は「これは使えません」と拒否した。一目見て設計上の弱点がわかったからである。
「私の指摘に桜井さんも同意し、日産サイドに断ってくれました。設計上問題がないところは共用しましたが、どうしても譲れない部分は主張したのです」
ちなみに伊藤氏が弱点と感じた部分は、ブルーバード510が市場に出てから耐久性の問題が表面化し、対策が行われている。

当時、伊藤氏や桜井氏の上司だったのが田中次郎氏。終戦により翼を失った立川飛行機が、自動車産業に転換する際に主導的役割を果たし、その後も一貫してプリンス〜日産の技術向上・発展に貢献、両社の融合の象徴である日産テクニカルセンター(NTC)の設立にも関わった人物である。伊藤氏の仕事ぶりには、その田中氏の教えが大きかったという。
「田中さんから、モノはウソをつかないとしょっちゅう言われてました。問題がありそうなモノは、必ず問題を起こす。問題を起こしたモノには、必ず原因がある。その真相を探求しろと、徹底的に叩き込まれました」

実質的には日産に吸収合併され、弱い立場にあった旧プリンスの作ながら、伊藤氏らの頑張りで個性を守ったC10スカイライン。“愛のスカイライン”の広告キャンペーンや、レースにおけるGT-Rの活躍などが功を奏して大ヒット。合併によってセドリックとグロリアのように、ブルーバードの双子車なる可能性すらあったスカイラインが、一躍日産の主力商品にのし上がったのだった。

1967年に入社した渡邉氏が最初にまかされた仕事が、そのC10系に加わった初代スカイラインGT-R(PGC10)のレース用サスペンションの設計だった。
「伊藤さんの下でボケっとしていたら、お前がやれと。やらせてみて、できなければ伊藤さんが自分でやるつもりだったんでしょうけど」
渡邉氏の設計したサスペンションを備えた初代GT-R(PGC10、KPGC10)は、レースで前人未到の50数勝を記録し、スカイライン伝説の最大の担い手となった。

それらを含め、伊藤、渡邉両氏が開発に携わった歴代スカイラインのなかで、印象深いモデルを挙げてもらったところ、伊藤氏は1985年に登場した7代目R31だという。売れに売れていたマークⅡを意識してハイソカー方向に振ったことが裏目に出てしまった、通称“7th(セブンス)”である。
「桜井さんが病に倒れたため、途中から受け継いだんですが、あれこれ問題が山積みで。それでも引き受けた以上はなんとかしなければいけないわけですから、生きた心地がしない4年間でしたね」
いっぽう渡邉氏は、開発責任者を務めた、1993年デビューの9代目R33だという。
「途中までGT-Rをラインナップするかどうか決まってなかったんです。結局やることになったわけですが、となればR32のGT-Rを超えなきゃならない。これは大変でした」
ご両名ともに、成功作より苦労したモデルのほうが忘れがたいというのは、興味深い。

もちろん伊藤、渡邉両氏は、スカイライン以外の車種の開発にも携わっている。それらのなかから、トークセッションではFF車の開発にスポットが当てられた。日産初のFF車は1970年にデビューしたチェリーだが、これはもともと旧プリンスで開発していたクルマ。世界初のエンジン横置きFF車である初代ミニの影響を受け、64、65年ごろから開発がスタートした。これに始まる日産車のFF化にあたっては、常に旧プリンス系技術人の姿があったという。

そんなFF車のなかでも記憶に残るのが、1982年に登場した初代プレーリー。両側スライドドアを持ち、Bピラーがない、やや背高の2ボックスボディに3列シートを備えた、世界初となるミニバン(当時はミニバンという呼称はなかったが)である。
「田中さんの発想から、1974年に開発が始まりました。これからのクルマはFFになっていくはずだが、日本ではFF車がなかなか認められない。だったらFFのメリットを最大限に活かした、FFにしかできないクルマを作ろう、ということでした」
そう語った伊藤氏によれば、こうしたリーダーの新たな提案のもとに、どんどん企画が進んでいくところは、まさにプリンス流だったとのこと。失敗を恐れず新たなことに挑戦する、「やっちゃえ」的な発想は、プリンスのDNAだという。

単独の自動車メーカーとしての活動期間は、四半世紀ほどしかなかったプリンス。しかし、進取の精神や独創性といったそのDNAは、日産との合併後も継承して育まれ、50年を経た今なお生き続けているのである。。

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