「プリウス誕生20周年」をテーマに、1977年の東京モーターショーに出展されたトヨタスポーツ800 ガスタービン・ハイブリッドカー、初代プリウス、最新のプリウスPHV、そしてWEC(FIA世界耐久選手権)に参戦しているTS50ハイブリッドなどを出展したトヨタ。プレスカンファレンスには、初代プリウスの開発責任者を務めた、いうなれば“ハイブリッドの父”である同社取締役会長の内山田竹志氏と、自動車文化と技術に造詣の深いモータージャーナリストの山口京一氏が登壇、トークセッションを行なった。

1997年に「21世紀に間に合いました」というキャッチコピーを掲げて発売された、世界初の量産ハイブリッド車だった初代プリウス。内山田氏によれば、その謳い文句のとおり、21世紀に直面するであろう資源・環境問題に対する解答のひとつとして、圧倒的に低燃費の“21世紀のクルマ”を作るべく、1993年に開発がスタートしたという。

それから20年、トヨタのハイブリッド車は2017年1月に累計販売1000万台を達成した。プリウスの出現は世界中のメーカーのエコカー開発に影響を与え、環境性能というクルマ選びの新たな価値基準を確立。社会における環境意識の向上にも貢献したのである。

「初代プリウスの発売当初は、月販1000台が目標でしたが、我々の想像をはるかに上回る台数のオーダーが入りました。事前のマーケティングではつかめなかった、環境性能の優れたクルマを望む潜在的な市場が存在したんですね。それがプリウスの発売によって、一気に顕在化したのです」

内山田はそう語ったが、山口氏によれば、プリウスの出現は、単にハイブリッド車を世に出しただけでなく、他の動力源を持つクルマに与えた影響も見逃せないという。
「ハイブリッドの登場によって電気自動車が見直され、復活した。いっぽう内燃機関も、ハイブリッドに対抗すべく、どんどん改良が進められた。こうした自動車産業全体に対するプリウスの貢献は、非常に大きい」

当初の狙いどおり、21世紀の自動車として、欠かせぬ存在となったハイブリッド。だが内山田氏によれば、開発初期には社内に抵抗勢力もあったという。
「動力源を2つも持って、コストも重量も増える。そんなクルマが普及するわけがない」
などと非難を浴びたこともあったが、「燃費をブレークスルーするためには、絶対に必要な技術」という信念のもとに開発を続けたそうだ。

チャレンジの結果、赤字状態で発売した初代プリウスは、代を重ねるごとにコストダウンと性能向上を両立。4代目となる現行モデルでは、ハイブリッドシステムの原価については、当初の1/4まで下がったという。

山口氏は「トヨタには未知の領域、誰もやってないことに挑戦するという気概、DNAがあるのではないか」と問い掛けた。古くは豊田佐吉が開発した自動織機のライセンスを英国に売り、その資金で自動車の開発をはじめ、やがてはマイカーを普及させたカローラ、それまでの日本車の枠を超えたレクサスLS(セルシオ)、そしてプリウスと、その流れが受け継がれてきたと思えるからだという。

それに対して内山田氏は、「創業以来、産業を通じて国に、社会に貢献していくという意識があり、それを可能にするための企業の体制が受け継がれてきた。エンジニアにとってはありがたいことだ」と語った。

その挑戦の精神は、今では人工知能やパートナーロボットの開発など、自動車以外の分野にも向けられている。とはいえ自動運転をはじめ、まだまだ自動車そのものの開発にもやるべきことはたくさんあり、そのための若い、優秀な技術者も育っていると語った内山田氏。「彼らに、プリウスを超えるクルマを作っていってほしい」と結んだ。